モナリザは何を見ているか?


 右の図は、ダ・ヴィンチと同時代、同じヴェロッキオ工房で活躍し、共作もしたと言うボッティチェルリの、これまた有名な『ヴィーナスの誕生』の、顔部分だけの切抜きです。
 ヴィーナスは視線を下に落としています。しかし左の目それ自体は、こちらを向いています。なのに顔全体を見ると、下、あるいは自分の内面を見ているようにしか見えない。

 ところがです。顔の左半分だけを切り取ると、まっすぐにこちらを見ていて、「うふん。」と言った感じに成ります。
 顔全体を見ていると、神々しいばかり。しかし絵を眺めて行き、顔の左半分を凝視すると、絵の雰囲気までガラリと変わってしまう! 女神は一瞬生きた人間と成り、何とも優しい眼差しをこちらに投げてくれるのです。
 まるで、閨の中の貴婦人のように ………
 見る側の視線と視野を考えに入れて、平面の形から動きを作っているのでしょうね。
 右目の視線や周囲の表情に、左目も少し引っ張られるようです。

 「はっ」とした時には、もう元通り ……… 面白いですね。画家はこう言う技を使うようです。

 ここで私は美術関係者に恨み言をいいたいと思います。
 「こんな面白い事があるんなら、もっと大きな声で教えておいてくれ! これを小さいころ知っていたら、私の絵画を見る目は変わっていたぞっ」と。

 ひとつ
 「女性がヴィーナスの左の瞳を見て、もし視線を返してくれたら、神の美を分け与えられる」
 などの伝説を作ってみてはいかがでしょうか? ( ← この話、聞いた事があるような気がするのは、トシのせいか? )
 女の子は将来、立派な美術史家か学芸員、いや、もしかしたら大芸術家に成るかも知れません。

 画家が人間の目の対象の捉え方や、人の顔の認識の仕方に対して、深い洞察と実験を繰り返していたのは自明の事と思われます。
 おそらくダ・ヴィンチはボッティチェルリと、「この視線はどうかね?」などと、楽しげに語り合っていたのではないでしょうか?
 想像したらちょっと、震えてしまいますね。


 そしてモナリザは、どこを見ているのでしょう?

 人が人物画に相対した時、実際の人の顔と同様、まず目を見ます。
 その時モナリザの二つの目は、どこを見ているか?
 こちらを見ています。
 しかし近づいて見ると、ヴィーナスとは逆に、モナリザは目をそむけるのです!

 面白い事に、目の一つ一つは、こちらを見ているように思えます。
 しかし、両目をみると、特に左目を見ると、こちらを見ていないように感じるのです。
 そんな事を考えながら商店街を歩いていると、女優さんの大きなポスターが貼ってありました。
 こちらを見ています。右の目も、左の目も、両方の目も、やはりこちらを見ています。
 相手がレンズを見ている時に写真を撮ったら、普通そう成りますよね。
 しかしどうも、少し斜めに構えているために、流し目のように成ってモナリザは、絵を見る人の斜め後ろ、つまり後ろのやや右側の、少し上を見ているように思えます。

 (右の図をクリックすると、更に大写しになります。 50KB)

 あなたが相対している人が、自分のやや斜め後ろばかり見ていたら、どんな感じがするでしょう?
 「後ろに、ゴキブリでもいるんじゃないか?」と、不安に成りますね。
 自分には見えない背後を、凝視されているからです。

 ボクシングの輪島功一選手が、「もうどうしても勝てない」と思った時、突然あらぬ方向を見たそうです。対戦相手の目は、その視線の先を追う。追ってしまうのです。一瞬、輪島選手から大きく目をそらす。その瞬間、必殺のパンチが対戦相手を捕らえていた ……… ボクシングではこの方法を、「目のフェイント」と言うのだそうです。
 人間は無意識の内に、非常に正確に相手の視線を追うようです。
 これは強い強制力を持った、『命令』のようです。

 なぜ人間はそのように反応するか?

 これは人間の意識が、自分の思っている通りの一人の独裁者ではなく、かえって多くの民衆のさまざまな欲動の上に立つ、仮の幻像のようで、いみじくもノイマンが言った通り、意識は無意識の巨大な海の中に、昼、目覚めている間にだけ現れる砂地にも喩えられ、そして個体は本来全体の一部だから、我々はフラミンゴのように、同じものを見てしまう。
 それは無意識から現れたものだから、自分の意思だと信じて、人は同じ踊りを踊ってしまう。
 この意味でも我は空で、悪魔はそれを熟知しており、天才はただ淡々と語るようです。

 モナリザの目のフェイントによって、世界中の人は、ダ・ヴィンチの必殺パンチを喰らっているのかも知れません。
 ここでもダ・ヴィンチは、モナリザを見せてくれない。いったいモナリザが見ているものは? ………


 この視線の効果が「不安にさせる」と言うのは間違いありませんが、目的はどうでしょう? ただ意味もなく、見る人を不安にさせるためのダ・ヴィンチのイタズラでしょうか? それともダ・ヴィンチの何かの意図が、見る者を不安にさせるのでしょうか?
 あなたは子供の頃、夜ひとりで部屋にいる時、「自分の後ろに何かいるに違いない。」と感じて、恐くて後ろを振り向けなくなった事はないでしょうか? あれはいったい、何が恐かったのでしょう? 何がいたのでしょう?

 「絵を見よう」とした時、人は一種、独特の精神状態に成ります。意識的な作為を意識的に最小にし、しかもすっかり消えぬよう注意して、絵から受け取る印象や直感を、まるで幼児や子猫のように遊ばせておく。そして同時に、自分の微細な感情や感覚の動きを一切見逃すまいと、まったく最大限に注意して、意識しているのです。
 何と言うややこしい! しかし古来、この精神状態を、極めて簡潔に表現した言葉があります。いわく、
 耳を澄ます、目を凝らす。
 意識を目と耳に集中させる。
 これは最も能動的な精神状態でもあります。
 かつて沖正弘と言うヨガの巨匠が言っておられました。

 智慧と言うものは考える力ではなく、感じる力である

 絵の鑑賞者は強固な意識を持ったまま、無意識の闇の中へ降りてゆく。それはまるで瞑想者のようです。
 そのような精神状態になった人の背後を、モナリザは見つめる。目で指し示すのです。

モナリザの視線の先、自分には見えない、自我の背後にあるものは ………

『 自己 』 ……… か!

 だからその視線の先を追い、自我の背後、自己の奥底を覗き込んでしまう。強い不安と共に ………
 やはりそのように描かれていると言う気がして成りません。

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